ジャンヌ・ダルクは、中世フランスの国民的英雄で、わずか19歳で火刑に処され、後にカトリックの聖人となった少女です。ジャンヌは、数々のドラマや映画に取り上げられてきましたが、最近は彼女を題材とした漫画や小説、ゲームなども多くつくれらているので、歴史の授業で習った覚えがなくても、至る所で目にする名前だと思います。
ジャンヌ・ダルクは、神のお告げに導かれ、フランス軍を率いて百年戦争でイギリスに対して危機的な状況だったフランスを救い、フランス王シャルル7世の戴冠に貢献した、まさに救世主でした。しかし、その後敵軍の捕虜となり、身代金と引き換えに敵国のイギリスへ引き渡され、異端の烙印を押され処刑されてしまったのです。
そのジャンヌは何故今でも世界中の人々に感動を与え続けるのでしょうか? ジャンヌ・ダルクを知るための大事な12のポイントをあげたいと思います。
1. ジャンヌ・ダルクの本名は?

ジャンヌ・ダルクは幼少期は、「ジャネット」という愛称で呼ばれていました。当時フランスで庶民には名字は広く使われていませんでした。
オルレアン解放の功績から、「オルレアンの乙女」(ラ・ ピュセル・ドルレアン、la Pucelle d’Orléans)と呼ばれるようになり、ジャンヌは「ジャンヌ・ラ・ピュセル」と名乗っていたとされています。
戴冠式に至る戦功によりシャルル7世からジャンヌの一族に貴族の位と紋章、そしてデュ・リス姓が与えられました。リスは百合を意味しヴァロワ王家を象徴する花です。この紋章は、ジャンヌの二人の兄のデュ・リス家に代々受け継がれました。そのため、百合はジャンヌ・ダルクを象徴する花です。ただし、ジャンヌ自身はデュ・リス姓を名乗らず、現存している署名は「ジャンヌ」だけです。
つまりジャンヌは生前にジャンヌ・ダルクという名を一度も名乗ったことがないのです。裁判の前の予備審議の際に、自分の名前を、“Jehanne la Pucelle” と名乗り、父親の名前はJacques d’Arc で母親の名前はIsabelle Roméeといったと記録されています。
2. 剣より旗が好きだった

ジャンヌは、最近は美少女戦士として描写されていますが、彼女は異端裁判の供述でも「剣よりも旗の方が40倍も好きだった」と語っています。
ジャンヌの剣は、「フィエルボワの剣」と呼ばれる剣です。この剣は、サント・カトリーヌ・ド・フィエルボワという町にある教会の祭壇の後ろの地面に剣が埋まっていると声がしたとジャンヌがいい、調べさせたところ、錆ついた十字が五つ刻まれた剣が発見されたというものです。
しかし、実際にはジャンヌはこの剣を使って戦うより、旗をふって士気を上げる役目をしていたようです。裁判の中で「敵に突撃する際、私は自分の手に旗を持ち、人を殺さないようにしました。私は誰も殺していません」と答えています。
3. ジャンヌ・ダルクの生涯は、当時の最高の記録の1つ

ジャンヌについて非常に詳細な生涯の記録や資料が残っています。これは、ジャンヌが農民の少女であると考える時に特に顕著です。これはジャンヌの裁判記録によるもので、また、その判決が覆された復権裁判でもよく調べられたからです。
この裁判記録にはジャンヌの驚くべき思考力が記録されています。もっとも有名なものは「神の恩寵を受けていたことを認識していたか」と尋問されたときの返答です。
「もし私が恩寵を受けていないならば、神がそれを与えて下さいますように。もし私が恩寵を受けているならば、神がいつまでも私をそのままの状態にして下さいますように。もし神の恩寵を受けていないとわかったなら、私はこの世でもっともあわれな人間でしょうから。」
この尋問はジャンヌに仕掛けられた神学的罠でした。教会の教理では神の恩寵は人間が認識できるものではないとされていました。ジャンヌが尋問に対して肯定していれば自身に異端宣告をしたことになり、否定していれば自身の罪を告白したことになったのです。
4. 異端審問は仕組まれていた

ジャンヌの異端審問は、全て最初から有罪と仕組まれたものでした。シャルル7世は神のお告げを受けたジャンヌに導かれたおかげで、フランス王になりました。そこで、ジャンヌを宗教裁判にかけ、彼女が異端と認められれば、フランス王としてのシャルル7世の信憑性が失われるとイギリス側は考えたわけです。
彼女には弁護士をつける権利すら与えられませんでした。しかも、裁判記録は改ざんされたとされています。
5. 男装で異端有罪となった

ジャンヌは、一般的に信じられているように、魔女として処刑されたのではありません。尋問に対してのジャンヌの返答は適切で、臨機応変に堂々と対応したため、異端という決定的な証拠がなく、裁判の公式記録に基づいた宣誓供述書ではなく、ジャンヌが異端を認めたという内容に改ざんした供述書にすりかえて、文盲であったジャンヌに署名させたのです。
当時異端の罪で死刑となるのは、異端を悔い改め改悛したあとに再び異端の罪を犯したときだけでした。ジャンヌは改悛の誓いを立てたときに、それまでの男装をやめることにも同意したこととなっていて、女装に戻ったジャンヌですが、看守にドレスが盗まれてほかに着る服がなかったために、ジャンヌは再び男物の衣服を着たのですが、結局、異端審問の再審理で、ジャンヌが女装をするという誓いを破って男装に戻ったことが異端にあたると宣告され、異端の罪を再び犯したとして死刑判決を受けたのです。
元々、ジャンヌは戦場では身体を守るために甲冑を身につけていました。また、甲冑は戦場でのジャンヌに対する性的嫌がらせを抑止していたと記されています。ジャンヌの処刑後の復権裁判で証言した聖職者は、ジャンヌが性的嫌がらせや性的暴行から身を守るために、獄中でも男装していたと証言しています。
つまり、ジャンヌは魔女としてではなく、男装をしたために異端として有罪を受けたのでした。
6. 心臓が焼けなかった?

聖女ジャンヌの奇跡の1つとして、ジャンヌ・ダルクの心臓が火刑後も焼けずに残ったという逸話が取り上げられることも多いようです。この逸話の出処はジャンヌ・ダルク復権裁判での関係者の証言です。
「不思議なことに焼け爛れた亡骸の中で心臓だけが焼け残って薔薇色に輝いていたというのです。何度も燃料が加えられ、どれほど炎になめられても、ジャンヌの心臓は燃え尽きなかったのです。」
正に、奇跡の心臓、「聖心(サクレ・クール Sacre-Coeur)」と信じられたのです。
パリの観光名所のモンマルトルのサクレ・クール・バジリカ大聖堂の正面には高さ5メートルを越す巨大な青銅の騎馬像がありますが、この右手に剣を捧げた勇ましい乙女像こそジャンヌ・ダルクです。
7. リハビリテーション(復権)
「リハビリテーション(Rehabilitation)」という言葉は、中世のヨーロッパで生まれたものです。そのきっかけとなった人物が、ジャンヌ・ダルクです。
ジャンヌの死後、彼女の罪の有無をめぐって、再び裁判が行われました。結果、1456年、ローマ教皇によって「ジャンヌ・ダルクは無罪である。」とジャンヌの死後25年を経て復権が宣言されました。
8. ジャンヌ・ダルクの再評価

しかし、長い年月が経つ中で人々の記憶は薄らいでいきます。そんな英雄を再び記憶の中に呼び起こしたのは、ナポレオン・ボナパルトでした。イギリスをはじめとするヨーロッパ連合軍との連戦に疲弊した世論を奮起させるため、そして自らの権力の正当性を裏打ちするため、「フランス王の名誉を守るため、神のお告げによりイギリスと戦った救国の聖女、ジャンヌ・ダルク」を、ナポレオン1世は担ぎ上げたのです。かつてフランスを救った英雄であるジャンヌと自分を重ねます。「自分はジャンヌ・ダルクと同じようにフランスの救世主である」と。
1803年にジャンヌはナポレオンの決定により、フランスの国民的シンボルとして宣言されました。そして19世紀のフランスで、フランス人団結の拠り所、フランス国民意識を喚起する象徴的な存在となっていきました。
こうして19世紀は「ジャンヌ・ダルクの世紀」となり、ジャンヌの名と業績が再発掘されることとなりました。
9. 聖女ジャンヌ

ジャンヌが正式にカトリック教会の聖人の列に加えられたのは450年以上も後の1920年のことでした。第1次世界大戦という混乱の時代を経て、ジャンヌは「聖女」として再びの復活を遂げたのです。
こうして彼女は、聖母マリアと並んで晴れてフランスの守護聖女となり、復権開始の場所であるノートルダム大聖堂にもジャンヌ・ダルク像が置かれました。
10. 数々の名言:強い信念と責任感

ジャンヌ・ダルクは、たくさんの素晴らしい名言を残しています。彼女の強い信念と責任感を感じさせるもので、言葉だけでなく、それを貫く行動で、フランス人の愛国心を奮い立たせてイギリス軍との戦い勝利に導いていきました。ここに彼女の名言のいくつかを記します。
- 一度だけの人生。それが私たちの持つ人生すべてだ。
- 私以外にこの国を救える者はありません。
- あなたが何者であるかを放棄し、信念を持たずに生きることは、死ぬことよりも悲しい。若くして死ぬことよりも。
- 私たちが戦うからこそ、神様は勝利を与えて下さる。
- 私たちは一つの人生しか生きられないし、信じたようにしかそれを生きられない。
- 私はまったく怖くない。これをするために生まれてきたのだから。
- 掛替えの無い人生、それが人間の持つ全てだ。それを信じて、私は生きていき、私は死んでいく。
- 勇敢に進みなさい。そうすれば総てはうまくゆくでしょう。
- 良心はどれほど清めても清めすぎることはないと思います。
11. ボブカットはジャンヌがモデル?

ジャンヌの髪の描写はすべて、短くて黒いということで、耳の真上あたりの周り全体が短くトリミングされていたと言われています。
1909年、パリの美容師アントワーヌは、ボブのインスピレーションとしてジャンヌを採用し、髪を短くカットした女性に対する何世紀ものタブーを終わらせたのです。このヘアスタイルは1920年代に流行し、解放された女性に結び付けられました。フランスでは今でもCoupe à la Jeanne d’Arc (ジャンヌ・ダルクの髪型)として知られているということです。こうしてジャンヌ・ダルクの短いヘアカットは、20世紀の女性のヘアスタイルに大きな影響を与えたのです。
12. ジャンヌ・ダルクの指輪
ジャンヌの遺体が遺物となって人々の手に入らないように、再び火がつけられて灰になるまで燃やされ、灰になったジャンヌの遺体は、処刑執行者たちによって橋の上からセーヌ川へ流されたと言われるので、ジャンヌの遺品はほとんど残っていません。
その中で、ジャンヌの指輪がイギリスで見つかり、オークションでフランスに600年を経て、2016年に戻ってきたというニュースがあります。この指輪は両親からプレゼントされたもので、異端審問の記録にイエスとマリアの名前、そして3つの十字架が刻まれた銀の指輪であるという描写は一致しています。ジャンヌの処刑前に英国の枢機卿ヘンリ・ボーフォートに渡り、回り回って1947年にオークションで175ポンドでハッソン家が買ったものだということです。300,000ポンドで、歴史テーマパークをフランスで運営するピュイ・デュ・フー財団が落札し、フランスに凱旋しました。
ただ、この指輪が本物かどうかはまだ議論されています。
「救国の乙女」としてフランスの国民的英雄として敬愛され続けるジャンヌ・ダルク。彼女が歴史の舞台に出て、処刑されるまでの期間はたったの3年弱でした。彼女の短い数奇な人生は、残っている名言の数々からも、信念を持って生き、その姿がフランスの人々を奮い立たせた素晴らしい女性であったことが伝わってきます。そしてこれらの言葉は現代にも通じ、ジャンヌは今でも人々に勇気を与える存在としてフランスで英雄とされているのでしょう。
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